誠に勝手ながら、少しばかりゴーヤちゃんぷる~の話をさせていただく。
僕が初めて彼を口にしたのは、確か、そう小学生の頃だ。クラブ活動の打ち上げで行った居酒屋のメニューで出てきた。
僕を含めた子供たちがやれ唐揚げだ、やれポテトフライだのを口に放り込む中、ビールジョッキ片手に顔を赤らめる大人達は次々にゴーヤちゃんぷる~を箸でつつくもんだから、憧れの気持ちもあってか一口食べてみたのだ。
結果は文字通り苦い経験となった。今思い返せば、味付け自体が酷かったようにも思えるが、詰まるところ当時の僕の舌はゴーヤを「食べ物」と認識することができなかったのだ。
それから再び運命の交差が起きるまでには十年弱を要した。
それは大学2年春のことだった。春といえば何かと酒が付き纏う季節である(僕には年中酒が付き纏っている気もしなくもないが)。
その日は理性の権化のような存在であるこの僕が珍しくドーパミンに脳を侵され、限界を吹き飛ばして安酒を飲んだ結果、運動機能を見事に停止させていた。まぁ要は“潰れた”のだ。
結果、僕は駅前の階段に設置されたスロープで、さながら浜辺に打ち上げられた鯨(といってもサイズ的にはスナメリくらいだが)のように倒れ込んでいた。酒に弱い諸君はこうなりたくなければ、自分の酔いレベルを逐一把握しながら、適度に飲むことをお勧めするが、案外こういう経験をしてみるのも人生悪いもんじゃない。深夜というのは思わぬ出会いを運んでくるものだ。
午前0時過ぎ、駅前広場にはそこかしこで学生が倒れる中、僕は恰幅のいい駅員さんに身体を揺すられて目を覚ました。
「君大丈夫かい?この時間になるとまだ外は冷える。ちゃんと家に帰って寝なさい」
こんな馬鹿丸出しの学生になんて温かい言葉をかけてくれるんだ、と寝ぼけながらに僕は思った。
「はい、そうします。ご迷惑をおかけしました」
「そんなそんな、謝る必要なんてない。若いもんは反省なんかせずに前見て突っ走るもんだよ。くぅ~若いっていいねぇ。春だなぁ、春だよぉアオハル、青春だねぇ。うんうん」
僕は軽く一礼をし、とりあえず彼から逃げるように離れた。そして視界に入った自動販売機で水を買おうとしたが、ポケットには財布がなく、代わりに裏面に字の書かれたレシートが入っていた。
「
盗難の恐れあり
我自宅で引き取る
手間賃として1000円頂く
p.s 1000円はすでに角瓶へと変ってしまった。
竹内」
僕はもう何も言えなかった。
とりあえず、部屋の鍵は下宿の下駄箱に入っているし、帰れることは帰れる。ふかふかの布団を求めて僕は甲州街道沿いを歩いた。
こんな時間だと言うのに、車たちは次々に煌々と光る新宿方面へ走っていくし、歩道には多くの人が歩いている。田畑の広がる田舎出身の僕にとって、こういう景色は上京前、ずっと憧れ続けたものだけれど、同時に故郷が恋しくもなった。
とそこへ、肌触りのいい春風がどこからともなく吹いてきた。そして僕は溶けそうな脳みそでぼんやり考えた。
『春だなぁ。東京来てもう二年目かぁ。この一年間何してたっけなぁ。遊んでるだけだなぁ。入学早々の勉強意欲は春風に飛ばされちゃったのかねぇ。春だねぇ、春だよぉ』
すると、風の中には何やら馨しい料理の香りが混じっていた。僕はそれを鼻に通した途端、猛烈な食欲に襲われた。
思えば酒ばかりでまともに飯を食っていないし、食ったものは全部流れ出てしまった。こんな時間に、塩辛いおかずと白米を食えたらどんなに幸せだろうか。僕は気づけば匂いのする脇道へ足を向けていた。
こんなところに店なんてあるのか?と思えるほどいたって普通の住宅街がしばらく広がっていたけれど、そのまま小道を進むと突如、南国の雰囲気が漂う商店街が目の前に出現した。近所にこんな場所があるとは知りもしなかった。さらに怪しさ万歳の小さなアーケード街に入ると、いよいよ匂いは近づいてきたが、見たところ営業している店はない。すると、突当りの曲がり角の向こうから、シャッターを閉める音が聞こえた。
恐る恐る進み、角から顔を出してみると、そこには閉店作業をしているちょっとヤンチャそうな茶髪のお兄さんがいた。歳は見たところ少し上くらいだろうか。彼は視線を感じたのか、鋭い目つきでこちらを見た。対して僕は怯みながら、とりあえず謝ってみた。
「なに?」
彼は表情を変えずに言った。
「あの」
「なんだよ」
「もう閉めます?」
「見りゃ分かるだろ。なに、何か飲みてーの?」
「いや、食いてーです。すいません」
僕がそう言うと、彼は黙った。とりあえずもう一度謝ってみた。
すると彼は閉めたシャッターを半分上げ、「賄いの余りならあるよ」と言った。
「え、いいんですか?」
「別にいいけど。金はもらうよ」
「勿論です、と言いたいところなんですけど、諸事情により財布が今ないんで明日返しに来てもいいですか?」
「お前すごい図々しーな」
「すいません」
「いいよ。明日店に返しに来いよ」
彼はそう言うと、僕をシャッターの内側へ招き入れた。店内の照明はカウンター以外全て落とされ、店じまいの準備がほとんど整っているようだった。僕はここに来て初めて本気で申し訳ない気持ちになった。とは言えそんな事口にすると余計に怒られそうだったので、料理が出てくるのをただ待った。
彼は大きな中華鍋に火を入れて少量のごま油を垂らすと、タッパーに入っていたゴーヤちゃんぷる~を取り出し、軽く炒めた。先ほど春風に運ばれてきた匂いの正体はこいつだ。醤油と、これはオイスターソースだろうか。嗅ぐたびに腹が良く鳴る。しかし、ちゃんぷる~を食べるなんて数年ぶりだ。果たして僕は食えるのだろうか。
一抹の不安を抱えている間にも、ちゃんぷる~の盛られた皿が目の前に置かれ、親切に米とみそ汁まで付いてきた。
さすが賄いという事もあり、大きなゴーヤの端の部分がごろごろ入っている。思わず苦笑い。
「いただきます」
「どーぞ」
彼は煙草に火をつけながら言った。
そのちゃんぷる~は本当に、とんでもなく美味かった。豚バラ肉の甘い脂と半熟の卵がゴーヤの苦味を包み込み、一体感のある旨味になって広がっていく。喉を通った後には、口の中にごま油とオイスターソースの余韻が広がった。あまりの美味さに「美味い」と口に出てしまうほどだった。苦みが美味いとはこういう事かと思い知らされた気分だった。
「お前変な奴だな」
「でもお兄さん、このゴーヤちゃんぷる~ほんとに滅茶苦茶美味いですよ。食います?」
「いらねーよ」
「すごい才能お持ちですよ。こんなに美味いちゃんぷる~作れる人世の中そうそういません」
「そんな事言えるほどお前ちゃんぷる~食ってねーだろ」
「それは確かに言えてますね。沖縄県の方ですか?」
「ちげーよ」
「じゃあどちら出身?」
「教えねーよ」
腹が減っていたこともあり、僕は夢中になってちゃんぷる~を食べた。それはまさに至福の時間だった。そこからの記憶はどこかあやふやで、気づけば僕は自分のベッドに横たわり、時刻は14時過ぎになっていた。また一日を無駄にした気分に襲われた。
僕は熱いシャワーを浴びた後、服を着替えて歯を磨き、自転車に跨って竹内の家に財布を取りに行った。そして1コマ授業に出た後、帰りがけにあの商店街へ寄ってみた。そこには昨日(正確には今日だが)の怪しい雰囲気は一切なく、ほのぼのとした下町の雰囲気が広がっていた。そしてアーケード街の例の店へ行くと、店内では若い女性二人が彼氏に対する不満を述べながらタコライスプレートを食べている姿があった。
「はいいらっしゃい」
カウンター内にいた白髪交じりのおじさんは、僕に気づくと優しい笑みを見せて席へ案内してくれた。
「あの、昨日の深夜ここでゴーヤちゃんぷる~をいただいたのですが、諸事情によりお金が払えなかったので、今払いにきました」
「あーそうなの。宮島君かな?目つきの悪い」
「はい、目つきの悪い人でした。今日出勤されます?」
すると彼は笑った。
「宮島君昨日が最後の出勤日だったんだ」
僕はその後おじさんの作るゴーヤちゃんぷる~を食べた。それはそれで大変美味いのだけれど、やっぱり宮島兄さんの作るちゃんぷる~は格別だった。
Gen
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